聞いてください        そしてご意見を・・・・・

                          
 現在伊奈町の抱えている問題等、私の考えを聞いてください。
     
       私のメールアドレス  nonoyuri55@yahoo.co.jp (クリックして下さい。)

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          小林昭一元町長・名誉町民を偲んで
                                                令和元年6月議会一般質問冒頭の発言より

  平成の最後、4月11日に突然ご逝去された、小林昭一元町長・名誉町民を偲んで多くの実績とその後現在も対応を求められる課題について質問させていただきます。
 まず、小林昭一様のご冥福を心からお祈り申し上げます。
 私は小林様とは深い深いかかわりがございます。私が議員となったのは昭和58年、伊奈町の栄地区が開発され人口が増加するとともに、この地区の代弁者と同時に第2の故郷とする伊奈町の健全な発展のために尽力してほしいとの要請に、不安の中にありながら決断したのがはじめです。まさか37年目の現在、ここに立って発言し続けるとは思いもよらぬことでした。議員になってまず感じたことは、議会の古い体質と停滞した行政です。これを打開するためには大きなメスを入れなければと思う心が強くなりました。メスはトップに替わって頂くことです。1年後、59年の町長選挙は前職3期を目指す町長が圧倒的に強いとの風評でしたが、当時議会事務局長をされていた小林さんが現職に対抗して出馬を考えてもよいとの意向を知り、私を含めて7名の議員が支援することになりました。特に、私の思いを大切に考えて頂き、「新しい風」を求めていた南地区の住民に「新しい故郷ずくり」を訴えて劣勢をひっくり返し見事当選されました。選挙は何回も経験してきましたがこの時ほど熱い選挙をしたことは記憶にありません。
 それから16年、体調不良で引退を決意されたことを受けて、平成12年3月定例会一般質問で、次のような問いかけをしました。
 「思い起こせば16年前、小林町長は山積する難問を抱えた町政に果敢に挑んで立候補され、多くの町民の皆様の期待を背負って町政を担当されました。当時はニューシャトルの全線開通・クリーンセンターの建設・北部開発の区域決定等は火急の課題であり、解決が急がれていました。また多くの公約もされました。私なりに16年間を振り返ってみて、そのすばらしい実績に小林町政実現に協力申し上げた一人としてこの上ない喜びであり、心から感謝申し上げます。4期目に関しましても、病魔との戦いにありながら懸案の諸問題解決に尽力されました。例えば給食センター、ふれあい福祉センター伊奈の森、総合体育館に代えて地域に密着したした複合施設(ゆめくる)の建設、テニスコートを含めて丸山スポーツ広場、また下水道の促進をはじめとする生活環境整備、介護保険の導入に備えた高齢者福祉施設等々であります。振り返って16年の感想をお聞かせください。{後略}」
 小林町長の答弁は、「4期16年を振り返ってということでいろいろお言葉をいただきましたが、私の気持ちといたしましては、多くの町民の皆様及び議員各位並びに職員の方々の支えを頂きまして今日まで行政を担当させていただきました。お陰様で大過なく過ごすことが出来てまことにありがたく厚く御礼申し上げたい、感謝の気持ちでいっぱいでございます。{中略} 今でも心に残っているものとして、南中学、図書館、ふれあい福祉センターなど皆様のご理解により実現させていただきました。{・・・略}クリーンセンター建設につきましては、町内だけではなく蓮田市の方々にもご理解を頂いて完成することができたものでございます。{後略}」 と述べられています。

 広報「いな」 12年6月号には写真入りで、次のような記事が掲載されています。
「昭和59年4月の初当選以来、4期にわたり真摯に町政の運営に取り組んでこられた、小林昭一町長が任期満了ををもって勇退されました。小林前町長は、16年間にわたり精力的に各種事業に取り組み、この間、町初めての図書館の建設、南中学校の開校、町内中学生徒のオーストラリア派遣、クリーンセンターの稼働、ニューシャトルの全面開通、バラ園の整備及び町の花「バラ」の制定、公共下水道の供用開始、学校給食センターの新設、ふれあい福祉センター「伊奈の森」のオープンなど数々の事業に尽力されました。5月12日の退任式では、大勢の職員に見守られながら庁舎を後にされました。16年間、本当にご苦労さまでした。」

 身体に障害を持ちながら最後まで名誉町民としての公務を全うされた故小林昭一元町長・名誉町民に重ねての哀悼の意を表します。

 そこで今回は小林元町長の業績を振り返るとともに残された課題について考えてみたいと思います。
     広報「いな」より

 次に各論に移ります。
1、 困難な問題の解決と今後の課題
  ① 北部開発、正式には、「上尾都市計画 伊奈特定土地区画整理事業」については昭和44年に都市計画区域決定が、当時の建設省によって告示されましたが、     地権者の皆様の同意が得られず、行き詰まった状態が長くつづいていました。新都市交通が先行し、伊奈学園・県民活動センターの土地取得が決定してもなお区    域の決定ができない状態でした。住民の皆様との話し合いを優先させましたが、強く反対する地域を除いての区域決定をせざるを得ない状況となりそれを決断した    のが小林町長の最初の難題解決です。そして現状があります。今後の課題は県道伊奈中央線をはじめとする道路網をいかにするかということです。
  ② ニューシャトルの全線開通
    私が平成16年3月25日ホームページに記した「稲橋町長は人の痛みがわかるのですか。・・・闘いのうちに逝去された天明氏のご冥福を祈りつつ・・・」を再掲し(     このページの最後にあります。)、当時の小林町長の決断がニューシャトル全線開通のキーポイントで会ったことを紹介します。今後の課題としていまだ未買収の     部分についての対応をいかに考えているかをお聞かせ願いたい。
  ➂ クリーンセンターの建設
    上記にも記したように、近隣特に蓮田市の皆さんにご理解いただくことには大変ご苦労されました。
    現在のクリーンセンターは少なくとも今後15年程度は稼働せねばなりません。問題点とそれに対する対応の仕方をお聞かせ下さい。
   
  決断、そして今後の課題・・・小林元町長・名誉町民の業績の一部、そして決断の経緯と今後の課題について。
  ① 南中学の建設・・・(昭和63年4月開校) 建設までの経緯、30年以上経過しての今後の課題
  ② 図書館の建設・・・(昭和62年7月開館) 当時の人口は2万人代、十分役割を果たせたが、人口は倍増しかつ、高齢化社会にあっては、今の時代にふさわしい図               書館の在り方を考えなければならないと思うがどうか。         
  ➂ 紫陽花からバラの町へ・・・(平成2年4月) 経緯。伊奈町の花に「バラ」・町の木に「キンモクセイ」を指定、「バラの町伊奈」の始まりです。入園料の改定等行い、                今年も大変な賑わいを見せたとの町長からの報告がありました。今後の課題は。
  ④ 綾瀬川の土手をジョギングコースに・・・(平成3年) 経緯。管理を十分に、6,35キロのコース、高齢者の利用が多い。休憩施設等を考えては。
  ⑤ 体育館の建設を延期して複合施設の建設・・・(平成14年オープン) 経緯。今後の対応(体育館を含めて)
  ⑥ ごみの埋め立て地をスポーツ広場に・・・(平成12年2月丸山スポーツ広場として、テニスコートオープン、翌年サッカー場が完成) 経緯。現在の問題点、今後の                              課題
  ⑦ 少年スポーツグランド・・・(昭和60年6月オープン) 経緯。今後の課題(土地の賃貸借契約を含めて)

  「故小林昭一名誉町民を偲んで」  の最後に、  
  「残された課題」  として、当時から取り組んできて、いまだ方向性が見いだせていない問題についてその後いかに検討 されているかをもう一度お聞かせください。
  ① 町づくりの目標です。 ・・・合併{4市1町政令指定都市、上尾・桶川・伊奈、上尾・伊奈}  人口5万人で市制を目指す
  ② 丸山駅、志久駅周辺の整備・・・南の玄関口としての丸山駅周辺整備。  駅中心に理想の街づくが可能な志久駅周辺開発。
  ➂ 伊奈氏屋敷跡の保存、管理・・・昭和61年策定の「伊奈氏屋敷跡管理保存計画」を実現するための取り組み。
  ④ 体育館の建設・・体育館のない市町村はあるか。

   議会一般質問での問題提起(平成30年6月議会一般質問要旨)

   伊奈町の将来像は

1、まちづくり目標の変遷
 
  昭和56年・・・「田園文教都市の創造」{伊奈町基本構想で}~~「埼玉中枢都市圏構想」の一角として埼玉新都市交通(ニューシャトル)を活用してのまちづくりを目指した。

  法律によって義務付けられた 「伊奈町総合振興計画」での、まちづくりの目標は。

 平成 7年・・・「緑とやさしさに満ちたにぎわいのまち」~~目標人口5万人として合併を目指した10年
 平成17年・・・「自然と調和した、ふれあい・安心安全・住みよいまち」~~目標人口5万人として、市制を目指した。

 国の規制が外され、市町村独自での振興計画となって、
 平成27年・・・「ずっと住みたい緑にあふれた安心・安全なまち」、大島町政となって「ずっと住みたい緑にあふれたキラキラ光る元気なまち」と変わったが、どんなまちを目  指すのか。
2、「北足立郡伊奈町」でよいのか・・・伊奈の地を終の棲家として移り住んだ人々の思いをどうとらえるか。
3、近い将来の伊奈町、町制でよいのか、市制かそれとも合併か。
  市制のためには人口が問題、新都市交通駅で残された丸山駅・志久駅周辺、下郷区中島地区等駅周辺地区の地区計画の見直しは。
  合併についての町長の見解は。
4、広域行政の現状と今後の取り組みは・・・特に上尾市との関係~~消防・ごみ処理・河川等

  丸山駅を核としたまちづくりは

1、30年以上前から主張している私の考え方は変わらない。{私のホームページを参照ください}
2、昭和61年に作成した「伊那市屋敷跡管理保存計画」が最良と思えるがどうか。
3、伊那市屋敷跡周辺の耕作放棄地の活用は。
4、観光の拠点づくりには、障子堀等を含めて県に強い働きかけを。

   行財政改革

 行政改革

1、行政区の実態を検証し、今後の在り方を見直す時期に来ていると思うがどうか。
  ~~町民の皆様から指摘されていることは~~
  1)町指導での行政区の見直し(分割を含めて)
  2)行政の末端機関としての役割を明確に
  3)特に自治組織、自主防災・防犯ボランティア組織との役割の明確化を
  4)報酬・運営費等は現状でよいのか、見直しが必要と思うが。
  5)町民運動会・駅伝大会の見直しを。
2、執行機関として
  1)サービス精神・経営感覚を鍛える。
  2)町長のリーダーシップが不可欠。職員一人一人が新しいことに前向きに挑戦する姿勢が必要。
  3)職員研修の状況は・・・対象・内容・研修報告等の提出は。
  4)町民参画の推進 事業は・・・各種会議での公募人数は。参画事業推進の方策は。「町長タウンミーティング」の状況と効果は。

 財政改革

1、歳出の削減に偏りすぎではないか・・・諸指数はよくなっているが、町民の福利につながるか。新たな挑戦が難しいのではないか。財源がないで片付けることが多すぎる。
2、財源確保のために
  1)税収の確保・・・徴収率向上への取り組み、課税の見直し
  2)補助金・助成金等の確保への努力
  3)企業誘致・・・道路網整備の促進、特に伊奈中央線(圏央道へのアクセスのためにも)。基幹道路周辺土地利用の早期見直し、特に「土地利用構想図」の「街路整備推            進エリア」の有効活用のために。

   南部地区の問題

1、昭和58年、私が議員となった年から始まった、仮称「南運動公園」(当初は「小室東公園」)の有効活用を前提に質問します。
  1)36年間の経緯をどのように説明するか。(町で買収した土地利用を含めて。)
  2)基金を取り崩したが、予定地の活用を断念したのか。
  3)町有地の管理状況は・・・山盛りの残土置き場となっているが。
  4)農林関係、都市計画関係は問題ないはず、とりあえず土地を確保し、不足しているスポーツ広場等での活用を考えるべきではないか。
2、町道4156号線は、伊奈中央線栄3丁目まで、「いなほ街道」整備計画に入っており、平成22年の答弁では平成30年度までに整備を完了するとの事だったがいまだに  手付かずの状況である。なにゆえか。
3、南部大公園は近隣公園とし、子供から大人まで一緒に遊べる憩いの場とすべきとの私の提唱に賛同しての答弁があったが、どのように検討されてきたか。近隣の方々   の苦情を町としてどう対応したか。
4、原市沼調節池の活用については、ワークショップまで開催し有効活用を提言しているが、どのように対応されているか。英知を振り絞って町民のための有効活用を考え
  るべきではないか。駐車場がない・トイレがない・芝を植えても活用の仕様がない状況である。原市沼調節池で乾式にしていただいたのは、私たちのの強い要望であった  ことを忘れないでほしい。
5、栄4丁目の多目的広場も私の提言で実現した。当初は女子ソフトボール、軽スポーツ等で使用して好評であったが、現在はシルバー人材センターの草取り場となっている
  。軽スポーツ、健康体操場(野外体操)等有効利用を考えるべきである。
6、降雨災害予防のためにも、排水溝の整備は必要不可欠である。整備計画をたてての取り組みが必要ではないか。


      小学校卒業式 祝辞

 卒業生のみなさん、ご卒業おめでとうございます。
 皆さんは6年前、大きなランドセルを背に校門をくぐりました。そして今日からはランドセルともお別れです。
 この日皆さんはまず、どんな言葉を口にしますか。私は「ありがとう」であってほしいと思います。まず、やさしく時には厳しく育てて下さった、お父さんお母さんをはじめとして、家族のみんなに「ありがとう」です。そして、6年間に亘り、多くのことを教えて頂いた先生方、又、安心安全な学校生活を送れるよう、登下校時はもちろん常日頃見守っていて下さった、地域の皆さんに「ありがとう」です。大きな声での「ありがとう」はその言葉を受ける人はもちろん、言う自分も心地よいものです。 小学校を卒業して、少し大人に近づいた皆さん、いつも「感謝の心」を忘れないでほしいと思います。
 これからは中学生です。希望と小さな不安とで胸が一杯でしょう。楽しく充実した中学生活を過ごすために、もうひとつ養ってほしい「心」は「他の人を思いやる心」です。これからは小学生の時以上に、友達、先輩、先生、家族等、人と人とのかかわり合いが複雑になります。悩まなければならないことも出てくるでしょう。そのようなときに大切なのは「他の人を思いやる心」です。人は皆、一人では生きて行かれません。多くの人の支えがあって生きてゆけるのです。だから、自分の事以上に、他人の事を思いやる心が必要なのです。この心を養うことによって、より楽しく充実した中学時代を送ることが出来るでしょう。
 嬉しさとちょっぴり悲しさも残る卒業の日、人生の大きなステップを踏んで大きく羽ばたく卒業生の皆さんに心から祝福の拍手を送ります。
 最後になりましたが、この喜びの日を迎えられたご両親、また家族の皆様に心からお祝い申し上げるとともに、ここまでお世話頂いた先生方に厚い感謝をこめてお祝いの言葉とさせて頂きます。

                              平成27年3月24日   伊奈町議会議長  山本重幸
 


     中学校卒業式 祝辞

 卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。心からお喜び申し上げます。
 皆さんは、9年間の義務教育を終了しまして新たな旅立ちを迎えようとしています。
 そこでこの節目に改めて教育とは何かを考えてみたいと思います。教育基本法では、教育の目的を「人格の完成」にあると定義しています。難しい表現です。日本語の「教育」という言葉は英語で education(エジュケイション) です。この語源は educe (イジュース)日本語では「引き出す」から来ているといわれています。教育とは人間一人一人個々に潜在している、何か「よいもの」を見つけ引き出し育てることに他なりません。義務教育の9年間は画一的に定められた知識の吸収が中心でしたが、これからは一人一人の中に潜在している「よいもの」を見つけ引き出し育てる旅立ちです。「人格の完成」には知識のほかのものが必要です。安易な道のりではありません。厳しいものがあります。いくつもの壁にぶつかるでしょう。それを乗り越えてたくましく生きる人生を歩んでほしいと思います。
 振り返って見ると私も苦しさの連続を味わってきました。そこで励まされたのは、私が愛読したフランスの作家ロマン・ロランの書物に出てくる言葉です。ロマン・ロランは長編小説「ジャン・クリストフ」のなかで、若きジャン・クリストフにこのように言わせています。「苦しめ、もっと苦しめ、ああ苦しいことはなんと良いことだろう。強くて苦しむことはなんと良いことだろう。」 ロマン・ロダンはまた、「ベートーベンの生涯」という伝記の最後にベートーベンの一生を要約するベートーベン自身の言葉 「Durch Leiden Freude 」(ルールッヒ ライデン フロイデ) で結んでいます。日本語で「苦しみを通して喜びを」あるいは「苦悩から歓喜へ」と訳されてます。ベートーベンは晩年、身体的、経済的、精神的に大変苦しい環境におかれました。特に耳が聞こえないということは作曲家にとって最高の苦悩です。しかしそれを乗り越えて、あの有名な、交響曲第9合唱を作曲したのです。合唱は詩人シラーの詩「歓喜」・・・喜びの歌に曲をつけたものです。まさに 「Durch Leiden Frude」 「苦悩から歓喜へ」です。
 皆さんもこれから、苦しさに負けない「強くて苦しむ人生」を選択してほしいと思います。

 もう一つ申し上げたいことは、人は一人で生きていけないということです。お父さん、お母さんは勿論ご家族、先生、友人、近隣の人々等多くの人々に支えられて生きて行けるのです。私はよく「生かされている」という言葉を使います。生かされている者としては、常に感謝がなければなりません。他の人を思い遣る心がなければなりません。愛する心がなければなりません。そこから「美しい心」が生まれます。
 「美しい心」でこの素晴らしい卒業の日を迎えた喜びを讃歌しましょう。
 最後に、この喜びの日を迎えられたご両親、またご家族の皆さんに心からお祝い申し上げるとともに、お世話いただいた諸先生方に厚い感謝をこめて、私の祝辞とさせていただきます。

                             平成27年3月13日  伊奈町議会議長  山本重幸
                                             


       2016年 成人式祝辞

   苦悩から歓喜へ   (式典への寄稿文)

 新成人の皆さん、おめでとうございます。成人式は人生の大きな節目を自覚する時です。皆さんが辿った20年の軌跡を思い返し、今まで支えて頂いたご両親や大勢の方々に感謝しつつ、これからの人生について考える時です。皆さんには多くの試練が待ち受けているでしょう。しかし、様々な困難を乗り越えて初めて真の喜びに到達することが出来るのです。「ジャンクリストフ」の著書で知られている、フランスの作家ロマン・ロランは「ベートーベンの生涯という著書の最後に「苦悩から歓喜へ」と記し、ベートーベンの生涯を語っています。この言葉に救われて生きてきた自分を思います。これからの人生、困難から逃げない道を歩んで下さい。そして、あなたがた若い世代で新しい社会を築いて下さい。「

   式典での祝辞

 本日成人式を迎えられた皆さん、おめでとうございます。
 紹介に預かりました、伊奈町議会議長の山本です。議会を代表して一言ご祝辞を申し上げます。
 本年度の成人式式典への寄稿文では「苦悩から歓喜へ」と題して、これからの人生、困難から逃げない道を歩んで下さい、と申し上げました。

 次に、本日私が申し上げたいことは、成人式を人生の大きな節目と捉え、自分と言う存在を見つめ直す絶好の機会としてほしいと言うことです。
 人は「生かされて生きている」存在であります。一人で生きることはできません。また、「生かされている」ということは一人一人の存在に固有の意味があるということです。それをどう捉えるかによって、今後の人生が大きく左右されるでしょう。

 その土台に据えて欲しいのは、「感謝の心」であり、「他の人を思いやる心」であり、「愛の心」であります。「ありがとう」と言えることは、相手以上に自分自身が心地よいものです。次に、「他の人を思いやる心」ですが,
私の尊敬する104歳で現役医師としてばかりでなく、著作、講演活動等多方面で活躍されている、聖路加病院の日野原重明先生は、新聞のコラムで、関西学院時代に学んだ「マスタリー・フォー・サービス」(主であれ、人であれ、而して仕えるために)の精神を忘れないと記されています。「仕えるために」の精神こそ80年間以上、先生の働きを支えた心であり、実践でしょう。もう一人、文具界で活躍された「兼杉源次郎氏」は言います。「人生でただ一つ疑う余地のない幸がある。それは人の幸せのために生きることである」と。     つぎに、最も大切な「愛の心」ですが「愛」という言葉は日本語では一文字です。しかし、ギリシャ語では次の3つの言葉で表現されます。一つはエロスです。一種の美的な、あるいはロマンチックな愛を意味します。代償を求める愛であります。第2はフイリアであります。親子間の愛情、親愛等として使われています。第3はアガペーです。代償を求めない愛であります。敵でさえ愛する愛であります。
 1960年代にアメリカの黒人解放運動を指導し、1964年、当時としては格段に若い35歳でノーベル平和賞を受賞し、1968年わずか39歳で凶弾に倒れた、マーチン・ルーサー・キング牧師が非暴力抵抗主義の黒人解放運動を展開し勝利に導いたのもこの「愛」、アガペーです。
 キング牧師は言います。
 この愛を実践するには、第1に、許す能力を発展させ養わねばならないと。許しは、新しい出発、新しい始まりに必要な雰囲気を作り出す触媒であると。第2は、相手の善性の要素を見つけ出すこと、第3に、相手を打ち負かしたり、屈辱を与えようとしないで、逆に友情や理解を勝ち取るように努めなければならないと。

 皆さんが、これから迎える人生には複雑な人間関係に悩まされることも多いでしょう。 世界に目を向けると、いまだ多くの地域紛争、忌まわしいテロが絶えません。アガペーの「愛」こそ多くの問題を解決する鍵となるでしょう。  考えてみてください。

 最後に、昨今「心の教育」とよく言われます。心は幼児期に最もよく育(はぐく)まれると言われます。もうすぐにお父さんお母さんになる皆さんも、成人と言われる節目に改めて「心を磨く」ことを意識してみるのも、記念すべき成人式に相応しいのではないでしょうか。
 
 以上私の思いの一端を申し上げました。このような機会を与えられた事を心から感謝申し上げて祝辞とさせていただきます。
 ありがとうございました。
 
  
                                            2016年1月11日   伊奈町成人式において


     伊奈町の将来像は    平成22年12月議会一般質問より                        

   合併の歴史

 昭和45年11月1日、伊奈村から伊奈町となり、40年を経過しました。私も昭和58年に議員とさせていただき28年目を終わろうとしています。町制施行後、20年目・30年目の節目を経験し、そして40年目の節目となりました。感慨深いものがあります。
 伊奈町の過去を振り返って見ますと、小室村と小針村が合併し伊奈町が発足したのは戦時下の昭和18年、ビジュアル版伊奈の歴史には「戦争完遂のための{国内体制整備ならびに行政の簡素化の国策}に即し、18年1月に合併協議を開始し同年7月15日い伊奈村が誕生した」と記されています。国策のためなら僅か半年で合併の協議がまとまったことには、3回の合併協議に中心的に関与してきた私には、複雑な思いをさせられます。
 村名についても、小室と小針の小をとって、「二小村」(ふたこ)、「示村」等の候補が挙がったが、関東郡代伊奈忠次公にあやかった伊奈村に決定したと記されています。先人の、地域の歴史を大切にする思いに、現在に生きるものとして深い感謝の念と同時に、「伊奈氏屋敷跡」が県の指定史跡に選定されながら、その後の管理保存を、地権者の皆さまにお任せし、以降今日までの76年の間、行政としてほとんど関与してこなかったことに、行政のチェック機関の議会の一員としての責任を感じます。

 次に、その後の合併の歴史を振り返って見ますと、昭和34年に、埼玉県知事より新市町村建設促進法に基づき、上尾市と伊奈村との合併の勧告がされ、合併に積極的であった上尾市が先に合併を決議したが、伊奈村は合併反対の住民が臨時議会を妨害し、1票差で否決されたという歴史があります。
 そして、平成の合併です。
 伊奈町は、昭和57年に発足した、埼玉中枢都市圏構想の一員として、浦和・大宮・与野・上尾の4市とともに議会としても国内外の視察等を含め活発な動きを展開しました。平成6年ごろからは広域的都市連合から合併志向に傾き、平成7年頃からは伊奈町も積極的に関与するようになりました。平成8年、私の議長の時は、主導権争いで張り合っていた浦和と大宮の議長を引き合わせる仲立ちをし、伊奈町議会も正式に参加し対等に意見交換が出来る場を与えられました。その後3市合併か、4市1町での合併かをめぐってせめぎ合いがあり紆余曲折、伊奈町としては3市先行合併を容認せざるを得なくなりました。折衝の結果最後に取り交わしたのが、いわゆる「意向確認」です。そして平成12年、3市が合併し、約束通り「さいたま市」の相川市長が「意向確認」のため来町されました。対応したのは、稲橋町長をトップとする新執行部と、当時の正副議長と特別委員長の私です。丁重に承り、追って回答することになりました。しかし何ゆえか、回答する時には合併推進を主張する私をはずして「合併見送り」の回答を伝えたのです。埼玉中枢都市圏構想から始まって18年目、私が合併問題に中心的に係わって5年、努力が一瞬に費えてむなしさばかり残りました。
 その後、上尾市・桶川市との2市1町の合併協議の破綻、そして上尾市との協議も不調に終わり、平成の大合併に乗る形での伊奈町の合併問題は終焉したのです。(2市1町の合併協議、上尾市との合併協議の詳細については、このページに記しています。)

  「市制」は遠い、合併は?

 伊奈町の将来を見据えた合併しての町づくりを議論している真っ最中に、現在の伊奈町総合振興計画が作成され、17年3月議会に提案されましたが、合併が不調に終わって、これからの伊奈町の将来像を十分考察する時間もなく、野川新町長のもとでは可決せざるを得ない状況となりました。
 このような振興計画ですから、5年後の後期基本計画作成にあたっては、伊奈町の現在置かれている状況を十分把握し、伊奈町の新たな将来像を見据えた計画であってほしいと再三要望し、町長以下執行部も了解しているものと期待していましたが裏切られた思いです。
 
 総合振興計画では将来の目標として、「平成26年の人口フレームを5万人と想定し、新たな産業や市街地整備による人口定着を展開し、活力ある都市形成を図るための目標値として設定したものです。」と記されています。5年後の後期基本計画でもまったく同じ文言です。伊奈町行政に携わっている人で平成26年に伊奈町の人口が5万人になると思っている人はどのくらいいるでしょうか。人口の伸びは埼玉県でもトップクラスでとはいえ、ここ数年の年間の人口増は、5・6百人です。この状況では人口5万人に達するのは10年以上先になります。
 町長以下執行部として「人口定着を展開」できる方策を検討されているでしょうか。

 人口5万人は「市制」に移管出来る条件です。後期基本計画を見たときに町民の皆さまの多くは、伊奈町は近い将来人口5万人を超えて「市」となれる。「北足立郡」ではなくなる、と錯覚します。町民の皆さまの思いを裏切ることになります。 地方分権・地域主権の流れの中で、もう一度合併についても考える必要があるのではないでしょうか。
 伊奈町は、北足立郡唯一の町村です。「一郡一町」です。郡である必然性はどこにあるのでしょうか。特例的に「一郡一町」の場合は市制に移管出来るような法整備の働きかけを県・国にしてみては如何でしょうか。

  広域行政の取り組みは
 
 地方自治体は第一に財政力が問われます。現在の伊奈町は平成21年度の決算状況を見て、指数的には特に悪い状況ではありません。しかし、生産的な財源確保によるものではありません。経費の節減といっても伊奈町単独では限界があります。そこで浮上するのが「広域行政」です。水道・消防・ごみ処理等の広域化への取り組みは現在進行中と思いますが、なかなか先が見えてきません。他市任せではなく伊奈町の将来を展望した積極的な働きかけが必要ではないでしょうか。


   
 行政改革について      平成22年12月議会一般質問より

 20世紀後半から始まった時代の変化、特に世界的な流れとして、冷戦体制の崩壊を受けての経済のボーダレス化、グローバル化の進展、人々の価値観の多様化、少子高齢化社会、環境に対する関心の高まり等々、社会情勢、経済情勢が大きく変化していく中で、明治以来続いてきた中央集権的発想では国民の多様なニーズに対応することが難しくなる状況の中で、地方分権の推進を図ることが国家的課題となり、地方自治はまったく新たな時代を迎えています。
 このような状況の中で、地方公共団体においては、自らの責任において、社会経済情勢の変化に柔軟かつ弾力的に対応できる体質を強化し、社会福祉の向上とその地域社会にもっともふさわしい行政体制を構築することが行政改革の最大の目的であります。地方分権が強化されればされるほど、夫々の自治体の力が試され、格差が生じます。経営感覚が問われるのです。
 自治体の仕事はサービス業であります。サービス業として常に考えなければならないことは、如何に住民の皆さまに良いものを安く提供することが出来、そして、喜んで頂けるかであります。行政に携わる者の意識の問題です。意識改革こそ行政改革の始めであります。
 総務省から出された行政改革推進のための指針の中で、行政改革推進にあたっての基本事項として示されていることが、行政改革を真に成功させるためのバッググラウンドとしなければなりません。   内容を要約すると、
 「地方公共団体は、その事務を処理するにあたっては、住民の福祉の増進に努めるとともに、最小の経費で最大の効果を挙げるようにしなければならない。」(地方自治法第2条)という地方自治運営の基本原則に立ち返り、

1、サービス精神と経営感覚に立脚した行政改革。
2、首長のリーダーシップと職員一人一人の意識改革。
3、職員の意欲と主体的な創意工夫
4、住民の視点に立った住民参画の行政。

 であります。町長は行政改革を如何にとらえておられるか。
 
                                                   
    森田清さんを偲ぶーーー弔辞・・・ふれあい活動センター「ゆめくる」建設の経緯
 森田清さんの突然の訃報に接し。心から哀悼の意を表します。
 森田さんとは公私ともにかかわりの深かった私に、高須葬儀委員長より個人を偲んでの弔辞を依頼されました。僭越ではありますが大変お世話になった森田さんに感謝の一端を述べさせて頂きます。

 森田さんに対する第1の感謝は、教育に対する貢献です。
 剣道を通して子供たちの心身を鍛えたいという信念のもとに職場を早期退職され、自宅を開放して剣道場を開設し20年を超える歳月、多くの子供たちを育ててこられたということです。私も教育関係に携わりましたが、継続することの難しさを痛感して参りました。

 森田さんに対する感謝の第2は、地域に対する貢献です。
 新住民の集った地域である栄町において、住民相互の融和をはかり、地域で生きることの大切さを率先垂範して示されたことです。結果として栄4丁目自治会を立ち上げ、また、栄3,4丁目を束ねて栄中央区を創設されたことです。発足当初から続いた、町民運動会・伊奈町一周駅伝大会での活躍は、森田さんが陣頭指揮を執らなかったらなしえなかったことです。伝統の夏祭りは今でも大きな賑わいをもって継続しています。また、栄中央センターの建設は森田さんの尽力の賜物です。

 森田さんに対する第3の感謝は、町民に対する貢献です。
 昭和58年4月の伊奈町議会議員選挙において初当選をされ、以降4期16年間に亘り伊奈町の発展のために尽力されました。特筆すべきは、議会での働きが多くの議員に認められ、新住民の議員としては初めてとなる議長に推挙されたことです。それまでは古い体質の残る伊奈町議会で土着の議員のみの特権とされてきた議長職を奪い取ったといっても過言ではありません。森田さんにはそれだけの強さもありました。森田さんによって開かれた道で私も議長職を経験させて頂く事が出来ました。
 議会での活躍は語りつくすことは出来ませんが、私とのかかわりで最も印象に残るのは、ふれあい活動センター「ゆめくる」の建設です。
 当時伊奈町では、伊奈町スポーツ振興審議会の答申に基づき、小室無線山の一角に、森林を伐採し町民体育館の建設を決定し、設計予算まで計上していました。私はスポーツ振興審議会の委員としては、一人、森林を伐採しての体育館建設に反対していました。議会としても充分な調査が必要と主張し「体育館建設特別委員会」の設置にこぎつけました。そして委員長に森田さんに就任して頂きました。森田さんは「森林を伐採しての大きな体育館の建設より地域に密着したコミュニテー施設を」との私の主張に同調して頂き、二人三脚で議会、当時の小林町長を説得し、結果として「ゆめくる」の建設が実現したのです。

 森田さんに対する第4の感謝は、個人的なものです。
 議員として同期でありましたが、年齢的には一回り以上違う大先輩であります。当時若輩の私の面倒を見ていただき、ともに研鑽して伊奈町のために尽くすことが出来ました。議員を引退してからは、私の後援会の顧問として選挙では陣頭に立って応援に駆け回って頂きました。人のために尽くすことに労を惜しまない人でした。

 悔やまれることは、こんなにもお世話になっておきながら、森田さんの病の重さに気づかず、お見舞いにも行けなかったことです。つい最近まで、車で通りかかると玄関で植木の手入れをしたり、一服されている姿を拝見し「元気ですか」と声をかけると、元気に「おう」と答えてくださった姿が目に浮かびます。

 人の命には限りがあります。83歳という年齢には多少の不満もありましょうが、後世にはその人の生き方が問われます。森田さんの生涯は、堂々と語り継がれる悔いのない人生であったと思います。

 その森田さんに、多くの感謝を込めて私のお別れの言葉とさせていただきます。森田さん本当にありがとう。

   平成21年5月7日   伊奈町栄町在住     伊奈町議会議員       山本 重幸


                        

      ニューシャトル丸山駅を核としたまちづくりを
   
                    平成22年12月議会一般質問で問題提起(3回目)    


 今回策定された伊奈町総合振興計画(平成17年度から平成26年度までの10年間)では、丸山駅・伊奈氏屋敷跡を含めてあの地域を「みどり・歴史文京ゾーン」という意味不明な土地利用地域に位置づけられました。今回の振興計画策定にあたりどのような経緯があって、前の振興計画並びに都市計画マスタープランが変更されたかわかりません。 善意に解釈するならば、合併による特例債の活用により、史跡「伊奈氏屋敷跡」を中心とした、公園的要素の強い開発がベターと考えたのでしょう。
 しかし、伊奈町の置かれた状況は変わりました。長年取り組んできた合併が破綻した今日、当面は伊奈町独自でまちづくりを考えなければなりません。  そのためには原点に立って歴史を紐解いてみましょう。

 新幹線の分岐通過、代償としてのニューシャトルから始まります。第3セクターで運営する埼玉新都市交通の経営を主眼として、昭和56年3月に策定された「新交通システム関連地域環境整序計画」の土地利用の基本方針として次のように記されています。 最初の項目に、
(1)新交通システム駅を核としたまちづくりを推進する。とあり、
 1、13の駅を核として駅勢圏に土地利用の再編を図る。
  現市街化区域内に設置される駅にあっては、駅関連道路の整備等とあわせて市街化の計画的形成を誘導する。
  現市街化調整区域に設置される駅にあっては、必要な都市施設の新設とあわせて新たな都市機能を配置する。
 2、各駅勢圏の土地利用は、地区特性を生かした特色のあるものとする。


 上記「環境整除計画」で示されている通り、駅を核とするまちづくりは、まちづくりの基本であります。伊奈町にあって、南の玄関口とも言うべき「丸山駅」を核とするまちづくりは、町としても最初に考えるべきでありました。このことは私も20年来主張して来ました。何もしない結果として駅周辺は学校と病院、それから墓地です。町にとって経済的効果は皆無です。そしてこのままでは、ますます秩序のない開発が進むでしょう。

 次に、前述した「伊奈町都市計画マスタープラン」(都市計画法18条を根拠として、平成8年に策定され20年後の平成28年を目標年次として策定されているもの)では、土地利用の全体構想図の中で丸山駅・伊奈氏屋敷跡周辺を住宅地と位置づけており、伊奈氏屋敷跡と調整池が「自然と文化を学び、育むゾーン」と描かれています。
 このように見てみますと、平成17年度に策定した伊奈町総合振興計画で、この地域を、意味不明な「みどり・歴史文京ゾーン」としたことはまことに不可解です。

 自立した伊奈町のまちづくりにおいては、原点に立ち返り、南の玄関口である丸山駅を核とした伊奈氏屋敷跡を含めてのまちづくりのあり方を真剣に考えるべきです。
 駅前に墓石が並んでいる駅はどこにあるでしょうか。         (平成17年10月8日記)  


    丸の内地区(伊奈氏屋敷跡)まちづくりについて


                             平成22年12月議会一般質問で問題提起(3回目)

1、地区の歴史と現況

 伊奈氏屋敷跡は、地名の通り伊奈町のシンボルであり貴重な財産であります。
 歴史的には、天正18年(1590年)、徳川家康の関東入国、江戸開府に伴い、伊奈熊蔵忠次が、関東郡代となり、小室の地に築いた陣屋であります。 忠次は、小室郷丸山の無量寺、閼伽井坊を倉田(桶川)の明星院にうつしてここに陣屋を構えました。忠次は関八州の天領を治め、治水、開墾などの事業を行い大きな功績を残しました。
 寛永6年(1629年)忠治が川口の赤山陣屋へ移るまで39年間、忠次ー忠正ー忠勝の3代の郡屋敷として存続していました。その後は、田中家が「御山預かり」として、屋敷管理を行い、嘉永3年(1850年)の屋敷絵図では、当時の面影がなく、民家12軒が入っていました。その姿が今も残されているということです。
 私は20年来、伊奈氏屋敷跡の問題を取り上げて考え方を申し上げてきました。その視点は、伊奈氏屋敷跡という貴重な文化財は地元の人々の痛みの中にあって守られてきたということです。そしてその痛みを分かち合い、解消しつつ今後、この貴重な文化財を管理保全していかなければならないということです。
 昭和9年(1934年)に埼玉県の指定を受けた史跡として70年以上、自分の土地でありながら現状の変更すら自由にできない状態が継続しています。昭和61年には、史跡「伊奈氏屋敷跡」保存管理計画が策定されたが、策定段階において地域住民との意思の疎通が希薄であったことが障害となり、住民の皆様に受け入れられませんでした。
 私は何回となく一般質問で取り上げ、まず、住民の皆様の声を聞くことからはじめなければならないと訴えてきました。
 ようやく、平成15年2月に、住民の意識・意向調査が中心の調査報告書が纏められました。その後2年が経過しながら、報告書に基づく対応がまるでなされていなません。変革を期待してアンケート調査等に協力した地元の皆様の期待を裏切ることにはならないでしょうか。

2、基礎調査報告書について

(1) 調査の目的は何であったか
 報告書では調査の目的は{伊奈町丸の内地区は、昭和9年に「伊奈氏屋敷跡」として、埼玉県の史跡に指定され現在に至っている。本調査は、この長期にわたる経過を踏まえ、歴史的に貴重な遺跡の保全を基本にしながら、町・県と地区住民が一体となったまちづくりを進める方向を検討するために、基礎調査をおこなうことを目的とする。}と記されています。
 このような明確な目的を持った調査であるならば、なぜ速やかに次のステップに移行しないのでしょうか。昭和61年の「伊奈氏屋敷跡管理保存計画」と同じ轍を踏まないためにも、この調査報告書をたたき台として、将来像を明確にし地元住民の皆様と話し合うべきであります。

(2) 調査報告書から何を読み取ることができるか
 報告書では、住民の意識・意向のまとめ、として記されていますが、私なりに一言で表現するならば「現状を改善してほしい。」との願いです。

(3) 住民の皆様の声を聞きましょう
 報告書では、「意見シートの意見内容」として、アンケート調査の生の声が記されています。大変興味深く読ませていただきました。この声を聞くことから、丸の内地区のまちづくりが始まると思います。

3、今後の取り組み方

 早急に基本方針を纏めて、住民の皆様との協議に入るべきです。

 私なりに調査報告書から読み取って、基本方針を纏めて見ました。 見解をお聞かせください。

(1)史跡整備、山林・農用地の維持管理及び住環境整備を合わせて当該地区再生計画の枠組みとする。
(2)史跡指定地域内の住居地域(19世帯)は基本的に指定地域から解除し、建設協定或いはデザインガイドライン等によって調和ある景観の保  全に勤める。
(3)周回道路を設けることにより通過交通は迂回させ、当該地区は居住者車両、緊急車両、管理車両に限定し歩行者優先道路とする。
(4)自然環境の保全に努めながら住環境を整備し生活基盤の充実を図る。
   ・ 指定地区内19世帯の生活インフラ(道路、下水道、街灯等)及び環境整備(山林・荒地等)
   ・ 当該地区周辺のインフラ整備(道路、外灯、公園、散策路ネットワーク等)
   ・ 丸山駅周辺整備及び周辺地域の開発
(5)山林・農用地については、保全のあり方を基本に具体的方策(市民農園、観光農園等)をを提示し地権者と協議する。
(6)土塁、空堀、二の丸跡、障子堀等保存すべき史跡を明確にし保存管理について地権者と充分な協議をする。
(7)「資料館」等の建設に関しては、展示内容、活用の仕方等慎重に検討し判断すべきである。

               

     伊奈氏屋敷跡の空堀                    二の丸跡に咲く「うらしまそう」(17年4月19日撮影)
                                                             

     その後の合併問題について

 伊奈町にとって最初の合併問題である、さいたま市との合併交渉については、下記に記したとおりであります。当時の稲橋前町長及び取り巻きのひとたちの判断ミスがまことに悔やまれます。上尾市に気を使いすぎたのでしょうか。
 私は最初から、「別人格である上尾市の動向にとらわれることなく、伊奈町の意思表示をすべきである。」と主張して来ました。私が委員長を務めた「政令指定都市推進特別委員会」でも当初、大半の意見はさいたま市との合併推進でした。しかし、稲橋町政となり、稲橋氏を支持した議員を筆頭に特別委員会の空気が一変したのです。平成12年8月に稲橋町長がさいたま市に対し合併の意思がないことを伝えたと聞いて(相川さいたま市長が意向確認に見えたときは、特別委員長という立場で同席した、しかし、回答をするときは私を外した。)長年合併政令指定都市推進の中心となって活動を続けてきた私としては空しさのみ残る結果となりました。

    再び訪れた合併機運

 伊奈町における合併に対する意識調査(アンケート調査)、桶川市からの合併の申し出で等を受けて、伊奈町議会として、平成15年6月に、全議員による
「合併問題調査研究会」(会長 鳥井議長)を発足させ、6回の協議を行い、同年12月には、調査研究会を解散し、上尾市・桶川市・伊奈町の2市1町の合併枠組みを視野に、 「市町村合併推進協議会」(会長 鳥井議長)を新たに発足させ、7回の協議を行い、続いて平成16年4月に、2市1町の枠組みを目的とする、「合併推進協議会」(会長 山本重幸)を18名の議員で発足させ、合併実現を目指して、現在まで17回の協議を行って来ました。

   上尾市・桶川市・伊奈町、2市1町による合併交渉

 第1回2市1町合併準備協議会  4月12日(月) 上尾市役所にて開催

 上尾市より、11項目に亘る、基本的協議事項のすり合わせをするために、次回の会議までに各市町に見解を取りまとめるべく提案がありました。基本事項の11項目次の通りです。1、合併の方式 2、市の名称 3、市役所の位置 4、合併の期日 5、財産の取り扱 6、地域審議会の取り扱い 7、議会の議員の定数及び任期の取り扱い 8、地方税の取り扱い 9、合併特例債の取り扱い 10、旧市役所・旧町役場の取り扱い 11、市民生活に直結する重要事項について。

 第2回2市1町合併準備協議会  5月22日(土) 上尾市役所にて開催

 各市町より、11項目についての見解が発表されました。
 上尾市は、議会合併推進協議会の田中会長より、1、合併の方式は、編入合併 2、市の名称は 上尾市 3、市役所位置は 現上尾市役所 の基本3項目については絶対譲れない、という発言がありました。
 桶川市は、岩崎市長より発言があり、1、合併の方式は 新設合併 2、市の名称は 公募 3、市役所の位置は 法定協議会の意思を尊重する、ということでした。
 伊奈町は、議会推進協議会の会長である私から、基本11項目について見解を述べました。これは、推進協議会で原案を作成し、執行部と充分協議を重ね取りまとめたものです。
 1、合併の方式 「2市1町の合併方式については、基本的に新設合併を希望する。しかしながら、各市町とも歴史的な背景もあることから、町民の理解がえられるならば「対等の精神」の理念に基づいた編入合併も一考に価する。」 ということで、編入合併も視野に入れての合併交渉を明確に打ち出しました。2、3、については新設合併であれば桶川市と同じ見解、編入合併であれば2、3、とも上尾市です。

 岩崎桶川市長の16年3月議会での発言(新設合併しかあり得ない)で予想されていましたが、上尾市は編入合併を強く主張、接点の模索もないまま、第3回の日程を決めて第2回準備協議会を閉じました。席上、第3回に意見集約が出来ない場合は、準備協議会の解散を申し合わせました。

 第3回2市1町合併準備協議会  5月29日(土) 上尾市役所において開催

 上尾市と桶川市で、合併方式について妥協できずに、準備協議会を解散して閉会。

 この間伊奈町議会合併推進協議会としても6回の協議を重ね、また、伊奈町から呼びかけて、水面下で、2市1町の正副議長、推進協議会会長で、妥協点を探る努力をしました。

 そのことについては、6月6日(日)の埼玉新聞の一面冒頭記事で取り上げられました。


「合併協議準備会解散までの48日間」 「妥協案せまる伊奈町」 「無念感漂う桶川」 「頑と譲らぬ上尾」 「2市1町の思惑が交錯
」という見出しです。
 内容の一部を紹介すると、~「合併特例区にりてみたらどうか」。先月23日夜、北足立郡伊奈町にある県民活動総合センターの会議室で、伊奈町の合併推進協会長、山本重幸町議が口を開いた。前日22日、合併協議準備会の第2回会合が上尾市役所で行われ、新設(対等)か編入(吸収)かの合併方式をめぐり、上尾と桶川が対立した。(中略) 近い将来の行財政を考慮しても合併は避けられない伊奈は22日、新設を主張しながら「対等にの精神に基づいた編入合併も一考に価する」と柔軟路線の布石も投じていた。「2市1町の合併実現」が4月の伊奈町長選で初当選した野川和好町長の公約でもあった。23日秘密裏に行われた集会も、伊奈から持ちかけた話であった。第2回で、「上尾市の姿勢は硬い」と判断した伊奈はその席上「法人格の存続を」訴えた桶川の岩崎正男市長の発言に反応したものだ。合併特例区制度は、合併後の旧市町村単位に法人格を有する区を一定期間、設置できる特例措置。合併特例法の改正に伴い、先月19日に法案が可決、成立した。「合併特例区にすれば、旧桶川市にも法人格が残るから・・・」(伊奈町議)。伊奈は桶川に迫った。(以下省略)
 
 桶川市は、第3回準備会で、市名・市役所の位置は妥協するがが、合併方式については、伊奈町の骨折りも空しく、妥協できないとのことでした。 合併方式にのみに拘らず、合併の実を取ることを考えてほしかったと今でも残念に思います。
 編入合併でも、合併特例区をにすれば、法人格も与えられ「桶川区」として桶川の名前も残ります。また、合併特例債は編入される側の行政レベルの向上のために主に使用できるものなのです。

  上尾市との合併交渉

 2市1町の合併交渉が不調に終わり、伊奈町合併推進協議会としては、最後のチャンスとして、上尾市と伊奈町での合併を志向すべきであるとの見解で一致し、上尾市の意向を確認すべく、6月14日(月)上尾市議長、推進協議会会長と伊奈町鈴木議長と私の4名で会合を持ちました。席上、上尾市からも1市1町での合併に向けての前向きな発言があり、6月17日(木)県民活動センターで1市1町の推進協会の役員会を開催し、席上、合併推進協として、お互い市町、町長に合併準備会の開催を申し入れることにしました。
 6月22日(火)伊奈町の推進協役員7名で、上尾市役所を訪れ、新井市長に早期に合併の法定協議会設置の申し入れをしました。新井市長には快く対応して頂き合併実現に向けて好印象を受けました。
 同日、上尾市の推進協から、野川町長に対し、合併準備会設置の申し入れがありました。

 この時点では、上尾市との合併交渉は順調に推移するものと誰しも疑いませんでした。しかし、6月末に急変しました。上尾市推進協の田中会長から、一方的に、伊奈町町長から上尾市長に対し、合併の申し入れをすること、合併特例債の詳細な使い方を含めて合併基本事項についての考え方を提出することの要求がありました。伊奈町では、7月1日より、細田助役の就任、合併担当課長の病気入院等重なり、野川町長と充分協議する時間がなく、申し入れ等の回答をしばらく待ってくれるよう上尾市執行部にお願いし、了解をとりました。
 このような経緯の中で、7月7日(水)上尾市・伊奈町合同合併推進協議会が開催され、上尾市推進協議会の役員からの一方的な発言を聞きました。(変化した微妙な空気の中で余計な発言は控えようとの申し合わせのもと、伊奈町としては発言を控えました。)

 7月12日(月)午前中、伊奈町議会推進協議会を開き、町長から市町への申し入れ、基本11項目等を確認し、午後、上尾市との合同合併推進協議会に望みました。上尾市推進協役員から、町長の申し入れ書の文書に対し、文書の一部を捉えての質疑があり、伊奈町の考え方を踏まえて議論をしました。
 野川町長からの申し入れ文書の最後に「貴市との合併を協議してまいりたいと存じますので、貴職のお考えをお伺いいたします。」と結び、上尾市長からの返答を待ちました。7月20日に上尾市長から回答があり、再び伊奈町の回答を求めるものでした。

 文書のやり取りでは、埒が明かないと判断し、市町・町長・議会代表を交えてのトップ会談を求めましたが、新井市長は求めに応じず、議会に一任するとのことでした。それを受けて、両市町の議長、推進協会長の4者で公式な会議を持つことにし、日時の調整の結果、7月27日(火)上尾市で会合を持ちました。
 冒頭、上尾市の松崎議長から、上尾市執行部(市長)の見解としては、「合併特例法期限内の合併には時間的な問題があり、今回断念せざるを得ない。」との発言があり、交渉の打ち切りを表明されました。議長ともども一瞬、返す言葉がありませんでした。その後は空しい議論に終わりました。
 7月28日(水)伊奈町議会合併推進協議会を開き、4者会議の経過を報告し、上尾市との合併交渉を断念せざるを得ないとの結論達しました。
 

 その後、上尾市議会議員のホームページに、4者会議の内容について間違った記事が掲載され、其の文書への抗議も含めて、両市町の公式な4者会議を、事務局同席の上で開催することを要請し、最後の会議を持ちました。席上、今後両市町の広域的繋がりもあることから、合併が破談となった責任をお互いに転嫁することなく、同様な見解を広報誌に掲載することで、今回の合併交渉の終了とすることで同意しました。

 最後に一言、上尾市が言う、時間的問題は前向きに合併を考えるならクリアー出来ることです。しかし、上尾市が主張する、編入合併では、上尾市の合併メリットが余りに少なく、さいたま市との合併の賛否を問う住民投票で、そのしこりがいまだ残る上尾市として、伊奈町との合併について市民に充分理解をしていただく時間がないというのが本音と理解するところです。
(平成16年9月6日記)

                                                            (平成16年3月25日記)


     前稲橋町長は人の痛みがわかるのですか。
        闘いのうちに逝去された天明氏のご冥福を祈りつつ

 当事者である天明氏は、2年余りの闘病生活の中で、自分の名誉を回復すべく、一人で訴訟対応をし(できる状況でなかったが)無念のうちに先日逝去されました。心から冥福を祈ります。20年来、天明氏と接してきた私としては、感慨ひとしおであり、一つの時代の終焉を思います。
 今回、心からの哀悼の意味を込めて、稲橋町長発言の不当性を明らかにし、人間性を問いたいと思います。

 稲橋町長は、町長選立候補時に、埼玉新聞の取材に対し「議長時代、新幹線建設反対者に手続きミスで渡った町の金2,000万円を持ち逃げされたり大変だった。」という当事者の名誉を著しく傷つけるコメントしたことに対し、議会一般質問において発言の不当性をただしたところ、今度は「約束を守らなかった」と再三の答弁をしている。
 当事者天明氏は、この発言は名誉棄損であると、稲橋庄兵衛氏個人と伊奈町町長としての稲橋庄兵衛氏を相手として訴訟を起こしました。
 稲橋庄兵衛氏個人への訴訟は、一審勝訴、二審は逆転敗訴、上告は書類不備で棄却ということです。本人訴訟(弁護士がつかない)で一審勝利は稀有なことです。慌てた被告稲橋庄兵衛氏と弁護士は、埼玉新聞社をも引き込んで控訴し、原告天明氏はが末期がんと診断され闘病中にもかかわらず、裁判を急がせ、病が故に陳述書もまともに書けない状況の中で審理が行われ、二審敗訴となったのです。そして、弁護士のつかない上告は難しく、書類不備で上告棄却とされたのであります。
 後者の、町が被告とされた訴訟は、伊奈町の顧問弁護士(2、000万円支出当時顧問弁護士として支出の正当性を保証していた)がいるにもかかわらず、前者の個人訴訟の弁護士を主任弁護人として二人がかりで訴訟に臨み、原告敗訴となりました。前者の原告敗訴を受けての訴訟ですから結果は予測されましたが、まともな陳述もできない末期がんの患者を相手取っての勝訴を勝ちとるために、公金を使っての係争は許しがたいことです。私の再三の議会での質問に対し「2,000万円持ち逃げの根拠」も明らかにできなかったことが現実です。
 行政の原点は、弱い立場の町民に対し何が出来るかを模索することから始まります。慰謝料としての2000万円の支出は故小林元町長・名誉町民の決断でした。
 天明氏一家の長い間の不当な差別、人権侵害は行政に携わるものとして忘れてはならないことです。
 稲橋町長は人の痛みがわかるのですか。


 
次に記す文書は、病床にある天明氏に代わって私が最高裁に提出した陳述書です。真実をご理解いただけると思います。

1、 私は昭和58年4月に、伊奈町議会議員に当選し、9月議会において、新都市交通の用地交渉に応じない、天明氏に対する、当時の町長の暴言とも言える議会発言に  不審に思い、天明氏に直接面会し真実を知ろうと訪問しましたが、最初のうちは天明氏一家の行政に対する不信感から会話さえできませんでした。しかし、私の再三の
  訪問に心を開いて頂き、天明氏一家の、昭和46年以来続く人権侵害・差別を知りました。
2、 新都市交通の用地交渉は、後発の問題であり、10年以上前から続く人権問題の解決がない限り、すべての解決の道がないとの思いが強くなりました。
3、 昭和59年4月に町長選挙があり、当時の現職町長に対抗して出馬を宣言した小林昭一氏にこのことを強く進言し、理解を頂いて応援した結果、小林氏が当選し、新し  い町長として就任しました。
4、 その選挙期間中、天明氏の地元でる、羽貫地区の集会所において、300名ほどの地域の皆さんに、天明氏は「日本人ではないと思う人」と尋ねたら半分以上の人が手  を挙げたことに、いかに人権差別があるかを思い知らされました。天明氏の住まいは今でも粗末なプレハブです。
5、 小林新町長を含めて、天明氏と交渉した基本は、あくまでも、人権問題の解決を先行し、その後誠意をもって、新都市交通の用地交渉に臨むということでした。そのこと  を明記した「協定書」が、弁護士立ち合いのもと取り交わされました。協定書では、小林町長が被告側を代表していました。
6、 昭和59年12月に臨時議会が招集され、前期の趣旨に基づき、2、000万円支出の補正予算と天明氏一家の和解の議案が提出されました。そして、前者は可決され、  後者は否決されました。そして、予算は明許繰越となりました。(当時の議会は反町長派が多数を占めており、かつ、前記の「協定書」は提示されませんでした。)
7、 当時、埼玉新都市交通株式会社(社長 畑知事)としては、土地収用法に基づく解決の道が閉ざされ、唯一残されたのは、埼玉県も被告の一員である、天明氏一家を
  原告とする人権訴訟の解決でありました。
8、 そこで、社長が知事である埼玉新都市交通株式会社より、町長に対して、新都市交通が責任を持つから、2,000万円を執行してほしいとの強い要請がありました。
  (証拠文書あり)
9、 小林町長としては、新都市交通の全線開通の必要性に鑑み、高度な政治判断として、知事の強い要望に応えて執行したものであります。
10、 2、000万円の性格は、町長が63年3月議会において行政報告している通り、人権訴訟に対する損害賠償金でありました。
11、 しかし、埼玉新都市交通としては新都市交通全線開通のための対策費として、町に全額支払っており、町としては受け入れています。そのことに関して、埼玉新都市交  より、伊奈町議会全員協議会において状況の説明があり、議会としても了解したところであります。
12、 執行の折の議会議長は、稲橋現町長であり、その後議会選出監査委員として異議を申し立てた記録はありません。
13、 上記の通り、経緯を最も知りうる立場にあった、稲橋氏が、「町の金2,000万円持ち逃げ」と発言したことは、明らかに虚偽発言であり、悪質な人権侵害で  あります。

                                                   (平成16年3月25日記)                                                             

  伊奈町  この美しい自然環境を後世に

 世界の長い歴史の中にあって、20世紀は、科学と開発という名のもとに自然環境の破壊のみが先行した世紀でありました。
 新しい世紀は、人類がいかにして自然と共存し生き残るかを考える世紀でなければなりません。「地球環境の保全」は、後世への最大の思い遣りであります。
 翻って伊奈町を思う時、伊奈町の最大の誇りはこの美しい自然環境であります。この自然環境を如何に後世に引き継いでいくかが問われています。ことに、
 1、武蔵野の面影を残す、小室無線の樹林地
 2、昭和9年に、埼玉県の指定史跡とされ、今日まで放置されている「伊奈氏屋敷跡」の保全
 3、田園・果樹園等農用地の保全
 4、屋敷林の保全、綾瀬川等河川の浄化   等々です。

      

   小室無線のさくら   (17年4月10日撮影)              綾瀬川土手のさくら(栄5丁目)

   
                                             
              
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